深川林地

深川林地の碑

皆様は「土木遺産」という言葉をご存知ですか。今回は、剣淵町にちなむ土木遺産を紹介します。

北海道の冬は鉄道の運行にとっては過酷な環境です。天気予報の精度が上がり、除雪車の能力が高くなっても、大雪となれば運休となります。現代ですらそうですから、北海道に鉄道が走り出した明治の頃は、さぞかし大変だったと思います。とくに宗谷線(当時)は、吹雪になるたびに一瞬にして線路は埋没し、列車の立ち往生が頻発していたと聞きます。

剣淵町の最初の入植者は明治32年に到着しました。その翌年、明治33年に宗谷線が開通し、剣淵町にも駅ができました。当時は、樹林を切り開いて鉄道を作りましたが、まばらな低木があっただけと推測されます。明治末期に鉄道の運行に大きな影響を与える大雪があり、それを機に宗谷線沿線でも大規模な植樹が始まります。本州において線路脇に樹木を植えることの防雪効果は確認されており、北海道でも実施することとなります。この地に、最初、北海道の現地木である「ヤチダモ」を植えます。しかし、宗谷線沿線は樹木の生育に向かない過湿泥炭地であり、水はけが悪く、土壌も酸性です。生育が悪く、多くの木が枯れました。専門家も悩みます。そんな中、名寄保線事務所の林業助手として2度目に赴任した深川(ふかがわ)冬至(とうじ)がドイツトウヒ(ヨーロッパトウヒとも呼ばれ、いわゆるクリスマスツリーに使われる木)の植林を提案、実施します。冬至は愛媛県出身ですが、愛媛県三島農林学校に在籍し、樹木に係る確かな知識を持っていました。ドイツトウヒは、大木ですが成長が早く下枝が枯れにくく、防雪林してはうってつけです。しかし、過湿泥炭地はドイツトウヒにとっても悪条件です。そこで冬至は酸性土壌を改良し、多数の排水溝を作りました。排水溝は、夏の少雨の際は排水を堰き止め、潅水として使いました。冬至は一年を通じて現地を隈なく回り、場所毎に排水路の本数、深さにも注意を払いました。

冬至は過労による疾患で、45歳の若さでこの世を去ります。しかし、冬至亡き後もトウヒは立派に育ちます。「宗谷線剣淵・士別間鉄道防雪林(深川林地)」は、1942(昭和17)年に12.7kmにも及ぶ立派な防雪林となり、完成します。この技術は他の地でも採用され、宗谷線のみならずその後の道内各路線の鉄道安定輸送に寄与します。深川林地12.7km、68.4haは平成17年に土木学会選奨土木遺産に認定されます。(その後、経済産業省近代化産業遺産にも選定)

「深川林地」の名前は、冬至がその生涯を閉じた昭和18年に、札幌鉄道局稚内管理部長熊川綾雄(後の室蘭市長)が、冬至の功績を称えて名付けました。現地では、冬至にちなみ、剣淵町内に木碑が建てられたが、それが朽ちた後、昭和41年に現在の地(剣淵駅から北に約600m)に石碑が建てられました。これがこの記事の写真です。現地はトウヒと他の植林でうっそうとし、間近に行かないとみることはできません。そのような場所で、あるいは天上から、冬至は今もこの地を、そして北海道全体を見守ってくれています。